『グレイテスト・ショーマン』「光」と「闇」の二つの世界

Faiz Zaki / Shutterstock.com

文責:澁澤龍介

大学で「グロテスク」を専門に研究した澁澤さんにグロテスクを視点に映画『グレイテスト・ショーマン』のレビューを書いていただきました。


「グロテスク」なパスカル

「人間とはそもそもなんと奇怪な獣であろうか。何という奇妙、何という怪異、何という矛盾に満ちたもの、何という驚異であることか」。これは、17世紀フランスの有名な思想家であるパスカルが、自身の著書『パンセ』(1670年)のなかに記した言葉です。パスカルの『パンセ』と言えば、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかし、それは考える葦である」という言葉があまりによく知られていますが、どちらも人間の本質を鋭く突いた言葉であると言えるでしょう。

 

ブレーズ・パスカル(1623-1662)

ところで、最初に挙げた言葉の中にある「奇怪な獣」に対して、パスカルは原文ではchiméreというフランス語を用いています。この「キメラ(あるいはキマイラ)」とは、ギリシア神話に出てくる怪獣の名前であり、この怪獣は頭がライオンで、胴はヤギ、尾がヘビという、極めてグロテスクな姿をしています。つまり、この「キメラ」という言葉を人間の例えに用いることによって、パスカルは、「人間とは極めてグロテスクな生き物である」と主張したことになります。

ところが、ここに一つの興味深い事実があります。実は、上の言葉を書いたパスカル自身が「せむし」であったと言われているのです。「せむし」とは、背骨が弓なりに変形し、常に前かがみの姿勢になってしまう身体障がいを意味する言葉ですが、現在では差別用語とされており、この言葉が公に使われることはありません。もし、本当にパスカルがそうした身体障がい者であったとすれば、最初に引用した言葉を彼が書いたとき、いやでも自分自身がグロテスクな姿をしていることを意識させられたはずです。grotesqueの語源※は「不自然な結合、あるいは歪(ゆが)み」であり、ここでもその意味で使っています。「気持ち悪い」や「不快な」という意味で「グロテスク」を使うのは、本来は誤った使い方です

(注※ 英語圏で最も権威ある辞書とされているOxford English Dictionaryは、grotesqueを “Characterized by distortion or unnatural combinations” と定義しています。)

 

フリークマン・ショー

さて、今年2月に日本で公開された『グレイテスト・ショーマン』は、19世紀半ばのアメリカで貧しい家に生まれながらもサーカス興業を成功させ、幸せを掴んだP.T.バーナムという実在の人物の半生を描いた映画。この映画では身体障がい者が多数登場します。例えば、小人症の青年、2メートルを超える大男、濃いひげを生やした女、アルビノの女性、頭に角の生えた男などです。特に、生まれつき胴体部分が結合した双子などは、まさにグロテスクな姿をしているといえるでしょう。

フリークマンショーに出演した障がい者たち

当時の身体障がい者たちに対する社会の偏見は強く、それは現代よりもかなり残酷であったと想像できます。実際に映画の中でも生活に行き詰った主人公のバーナムが、普通とは違った個性的な身体的特徴を持った人間を集めてフリークマン・ショーを開くことを思い立ち、彼のもとに寄せられた情報を頼りに彼ら障がい者のもとを訪ねてまわりました。劇中で使われるfreakという言葉は、「奇形」や「変態」を意味するものです。彼らの多くは家族によって隠され、社会からは排除・隔離された状態でした。当時は、彼らは出来るだけ目立たないように、存在を隠しながら生きていかざるを得ない時代だったのです。

そのことを示すシーンが、映画の中でも描かれています。たとえば、バーナムのフリークマン・ショーが人々の間で徐々に人気になっていく一方で、彼の劇場の前では連日のように彼のショーに対する抗議運動が繰り広げられます。一見するとこの抗議運動は、障がい者たちを見世物にして金を稼ぐバーナムの不道徳を非難する抗議のように見えますが、実はそうではなく、「障がい者などという気味の悪いものをこの街に入れるな」という抗議運動なのです。実際、この運動に集まった群衆は、障がい者たちの人権を主張するどころか、ショーに出演する彼らのことを取り囲み、汚い言葉で罵倒するだけでなく、唾まで吐きかけます。それほどまでに、当時の障害者に対する社会の偏見は根強いものでした。

この映画では、身体に障がいを抱えた人たちが、そうした社会から向けられる偏見を乗り越えながら、自分らしく力強く生きていくんだというメッセージが込められているのですが、そのことがこの映画の主題歌であるThis is Meという曲名にも込められているのでしょう。

 

描かれた2つの世界

しかし、あくまでもこの映画のメインストーリーは、バーナムのビジネスの成功と、それによってもたらされる家族愛です。障がい者の苦闘は、この映画の主題としては扱われていません。ここでは障がい者たちは脇役にすぎないのです。

映画を観はじめるとすぐに気が付くことですが、この映画では二つの世界が描かれています。バーナムたちの住む「光」の世界と、障がい者たちの暮らす「闇」の世界です。そして、この二つの世界はかなり強烈に対比されているのです。

Jenny Lind

例えば、映画の中盤において、ジェニー・リンドというオペラ歌手が登場するのですが、彼女は外見も美しく、音楽通たちからも歌声を絶賛され、上流階級の社交界の人気者としてもてはやされており、まさに「光」を代表する人物です。また、バーナムにはヘレンとキャロラインという二人の幼い娘がいるのですが、彼女たちもまた「光」の世界を象徴する人物でしょう。彼女たちは肌も白く、美しいブロンドの髪をした、たいへん可愛らしい子どもたちであり、彼女たちもまた上流階級の象徴であるバレエを習っています。

そうしたリンドやヘレンたちに対比されているのが、バーナムのショーに出演する障がい者たちであり、特に、ひげの生えた女レティです。彼女は、バーナムにスカウトされる前は、洗濯女として世間から目立たぬようひっそりと暮らしていました。彼女は極度な肥満体であり、顔には濃いひげが生えているので、決して外見は美しいとはいえません。そのため自分に自信のなかった彼女ですが、その歌声をバーナムに買われ、ショーでは歌姫をつとめることになります。そして、街角の古びたフリークマン・ショーで歌うそのレティと、上流階級の客でいっぱいになった立派な劇場で歌うリンドの姿が、劇中では執拗に重ね合わされるのです。

上品で高級な芸術として知られるオペラやバレエと、下品で低俗なフリークマン・ショー。この二つの世界が、映画の中では明らかに対比されています。そして、この二つの世界は、最後まで決して一つに交わり合うことがないのです。なぜなら、映画の最後でバーナムは、自身のサーカスの演目中に抜け出し、また主催者としての権利をすべて他人に譲り渡すやいなや、彼は娘のバレエの発表会に駆けつけてしまい、そのままサーカス業を引退してしまうからです。つまり、彼は自分の仲間であったはずの障がい者たちの面倒を最後まで見ることはなく、「闇」の世界からいち早く抜け出して、自分だけ美しくて上品な「光」の世界へさっさと帰って行ってしまうのです。

 

人種差別という闇

また、こうした障害者に対する差別の問題に加えて、この映画では「人種」に対する差別という「闇」についても考えることが出来ます。

例えば、この映画には、身長が2メートルをはるかに上回る大男が登場します。彼がバーナムの採用面接に訪れた際、彼は明らかに東欧系だと分かる名前を名乗りますが、バーナムは即座に彼をアイルランド人として売り出すことに決めます。実は、当時の社会にはアイルランド人に対する強烈な差別意識があり、バーナムは、その桁外れの身長にさらにアイルランド人というレッテルを貼り合わせることによって、より大きな話題を呼べると踏んだというわけでした。

さらに別の例を挙げましょう。バーナムのフリークマン・ショーの脇役には、シャムの双子が出てきます。「シャム」とは、体の一部が生まれつき結合した状態の双子のことを指す言葉ですが、これは、1811年にタイで生まれたチャンとエンのブンカ―兄弟が世界的に有名な結合双生児だったため、彼らの出身地であるシャム(昔のタイの呼び名です)が結合双生児を意味する言葉として使われるようになったのです。(彼らはサーカスの見世物として欧米などに巡業し、1874年にアメリカで亡くなります。) このブンカ―兄弟は、生まれた場所こそタイでしたが、人種的には中国系の両親を持っていました。

さて、このブンカ―兄弟がこの映画にも登場するのですが、われわれ日本人にとって興味深い事実が一つあります。それは、その双子のうちの片方を、日本人の小森悠冊さんが演じているということです。実際のブンカ―兄弟は中国系タイ人だったわけですが、それを日本人が演じるとはどういうことなのでしょうか?欧米人の目から見れば、日本人の顔もタイ人の顔も中国人の顔もたいして変わらないということでしょうか。非常に考えさせられる問題です。

※権利関係の為ブンカー兄弟の写真を載せることができませんが、実際の兄弟の写真は→こちら

 

こうした障がい者や人種に対する差別は、最初にも書いたように、この映画においてはメインストーリーではなく、あくまでもサイドストーリーにすぎません。これまで紹介してきた差別も、よく目を凝らして見なければ気が付かないほどのものです。『グレイテスト・ショーマン』は、その華やかな音楽とダンスの「光」の部分に思わず目が行きがちな映画です。しかし、細かい部分に注意深く目を向けてみると、ここでも紹介しきれていない、「光」の陰に隠れた、「闇」の部分がほかにも見えてくることでしょう。


参考文献

驚きの昔のサーカス、見世物小屋の人と写真(フリークショー)

フリークマン・ショーなどの見世物に興味をお持ちになった方は、リチャード・オールティック『ロンドンの見世物Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ』(国書刊行会)を、一読されることぜひお勧めします。

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